故郷宮城へ―Ⅰ [東北]
06時30分:東京 6時44分発MAXやまびこ203号に乗り込んだ。
家を出る頃はまだ薄暗かったが、上野を過ぎると朝日が車内に差し込んできた。
08時20分:郡山
08時37分:福島
雪をまとった吾妻連峰、とりわけ吾妻小富士が美しい。
09時04分:仙台
急ぎ足で駅付近を歩く。名掛丁のアーケード街や駅近くの市場には人々が行き交い、活気が感じられた。
11時45分:レンタカーを小学生の頃魚釣りに興じた七北川河口の蒲生へと45号線を走らせた。
12時30分:蒲生
昔……
仙台駅前を出発した蒲生行きのバスが、仙塩街道から七北川左岸へ右折すると、急に凸凹道になってバスは大きく揺れた。右に七北川がゆったりと流れていたが、左側の景色は全く記憶にない。おそらく人家はあまり無く田圃が広がっていたのではないだろうか。しばらく走って貞山堀に突き当たる手前を左に曲がると蒲生の町(集落)があって終点となる。僕たちはそこで釣り餌のゴカイを買って、七北川と貞山堀との交わるあたりで一日釣り糸をたれた。小学生の僕たちにはチョットした冒険だった。
今……
七北川左岸の道に入って少し行くと私は愕然とした。45号線沿いではあまり感じられなかった地震の爪痕は、少しだけ海に近づくと突然現れた。ほとんどの建物は(おそらく散乱していた瓦礫はすでに片付けられた為)土台のコンクリートだけを残して跡形もなく消え去り、一つ二つ倒壊を免れたアパートにはもちろん人影は無く、その窓からカーテンが風に揺らいでいいるのが見えた。辺りは遮るものが何もなく、あまりに見通しが良すぎて現の光景とは思えないほどだった。遠くにユンボが何かをつかみ上げているのが見えた。舗装が途切れた道をさらに進むと、海岸線の手前にポツンポツンと松の木が見えた。子供の頃の記憶ではもっとしっかりした松林だったはずだが、もしかすると津波に流されたのかもしれない。貞山堀まで行ってみたかったが、これ以上は進んではいけないような気がして荒れた道を少し進んだ所で引き返した。戻り道、七北川のはるか上流に目をやると、船形山だろうか白い峰々の連なりが座っていた。
15時10分:塩釜神社にすべての被災地の速やかな復興をお願いして今夜の宿、南三陸町志津川のホテル観洋へ向けて三陸自動車道を走った。
16時15分:南三陸町志津川……町はすべて消え去っていた。
おはようございます
読ませていただき愕然としました。
子どもの頃のワクワクの思い出も
一瞬に消え去ってしまいそうな~
この災害の大きさをずしんと感じ
ました。
復興を一日も早く望みたいですが・・
失われたものまでの復興は難しい
のですね☆なんとも・・・・辛いです。
by スマイル (2012-01-31 08:06)
もうすぐ1年・・・
変わり果てた故郷を見るのは辛いですね。
by hatumi30331 (2012-01-31 08:13)
胸が痛む郷愁の旅ですね。
しんみり・・・。
by kamoshikanagai (2012-01-31 09:47)
自分の親戚のほとんどが宮城県在住です。
私も震災後に三陸自動車道を北上した時、右手に広がる光景に絶句。
そして復興は程遠いものだと実感しました。
相変わらず余震が続いているし、
さらに大きな余震が起きる可能性もあるようで、
現地の方は心が休まらないでしょうね。
本当に心が痛みます。
by imarin (2012-01-31 13:34)
早い復興と…穏やかな日常が戻りますようにと祈ります。。
by hoshino_sizuku* (2012-01-31 13:51)
地震のこわさ以上に津波の怖さをまじまじと感じました。気仙沼から陸前高田では言葉にならず、写真も一枚も撮れませんでした。釜石にはその一ヶ月後で、少し気持ちの余裕もできて、何枚かの写真は撮ってきました。その昔は、地震、雷、火事、おやじと言ったものです。津波はもっと恐ろしいものだと、初めて分かりました。
by kjisland (2012-01-31 14:18)
宮城のお生まれですか。
辛い帰郷でしたね。
多分、なんのかかわりもない場所だとしても
その光景を見れば、涙するほどだと想像つきます。
それが、故郷だったりすれば尚更・・・。
胸の痛み、お察しします。
by nousagi (2012-01-31 16:16)
いつもながら素晴らしいお写真と文章を読ませていただき、
昔と現在のギャップを目の当たりにした思いです。
下手な報道番組より、はるかにリアリティを感じました。
ソネブロが劇重の中、大量のniceありがとうございます。
by akipon (2012-01-31 16:30)
学生の頃、蒲生干潟や貞山堀あたりにはよく行きました。
私も先日訪れてみて、涙が出てきました。
by 素人写真 (2012-01-31 19:46)
言葉になりませんが、故郷にお住まいの皆さまが1日も早く
当たり前の穏やかな生活に戻れますように!!
by hidamari (2012-01-31 19:49)
胸が痛みます。
神様、どうか傷ついた街を心を救ってください。
by よしころん (2012-01-31 20:51)
昔の風景を知っているだけに、変わり果てた姿をみるのは辛いでしょうね。 一日も早い復興を願ってやみません。
by おど (2012-01-31 21:48)
to スマイル さん
川沿いに中野小学校があり校舎に「野鳥と自然を友達に」と書かれていました。
蒲生は自然豊かなところです。きっと復興して子供たちのこだますることを願いたいです。
to hatumi30331 さん
つらい場面もたくさん見てきました。しかし塩釜ではみんな元気で商売しているように感じました。
マグロ屋の人も、港の露店の人も「負けてたまるか」というのが感じられました。
to kamoshikanagai さん
やはり自分の目で見なければいけないのではと思い、出かけてきました。
私にできることは、旅館に泊まり、食堂で飯を食い、お土産を買うことくらいでしょうか。たいした役には立たないかもね。
to imarin さん
ご親戚の方々はご無事だったのでしょうか。当時は電話がつながらなくて安否が確認できずに大変やきもきしましたね。
おそらくimarinさんが三陸道を通った時よりも少しは良くなっているのかもしれません。いずれにしても復興までは相当な時間とエネルギーを必要ですね。でも必ずや復興はなると思います。
to hoshino_sizuku* さん
皆さんが気にかけてくれていることが、支えになると思います。
宮城のみならず、青森から千葉まですべての復興が一日も早く成し遂げられるといいですね。
to kjisland さん
気仙沼、釜石等に入られたこと、ブログにて読みました。
あれから10か月たっても手つかずのところもあるし、仮設の問題も報じられています。しかし必ず復興はなると信じています。志津川湾のカキ棚も整然と並んでいるように見受けられました。
to nousagi さん
高校を卒業するまで仙台で暮らしました。
いままで望郷の念にかられることなどあまりなかったのですが、今回このような事が起こると生まれ故郷が気になります。仙台の中心部は何事もなかったように感じられましたが、周辺部はまだまだです。
to akipon さん
昔は何もなかったところで、夏の海水浴の時期だけ少しにぎわうというような静かなところでした。だれもこんな所まで水が来るとは思っていなかったでしょう。早い復興がなるといいですね。
to 素人写真 さん
学生時代は仙台でお過ごしでしたか。
子供同士で釣りに出かけるときは蒲生か閖上でした。往復のバス代とエサ代とジュース代をおねだりして。今回 閖上は時間がなくいけませんでした。
to hidamari さん
今回は誰にも会わず、駆け足で往復してきましたが、今度行く時にはゆっくりとしたいですね。
何時の日かきっと平穏な生活が戻ってくると信じています。
to よしころん さん
町はいずれ復興すると思います。
心のケアは難しい人もいるかもしれませんね。でも時間という良薬の効果を信じたいと思います。
to おど さん
ぽつんと松の木がある所はちゃんとした林の様子を呈していたと思ったのですが、何にもないなあという感じです。まさか港や住宅を作るときに取り払ったわけではないでしょう。そのほか瓦礫の山を見るとあぁ~~っと思いますね。
by 山子路爺 (2012-01-31 22:53)
niceを押して良いものか迷いましたが...
未だに復興の全体図を見ることができないんですよねえ。
もうすぐ一年になろうとしているのに。
どうにかならないのか、と強く思います。
by ナツパパ (2012-02-01 08:32)
to ナツパパ さん
沢山の人たちに援助の手を差し伸べていただいて、東北出身者として大変ありがたく思っています。今一つ大事なことは、この災害の事を忘れずにいる事、そして政治や行政にプレッシャーをかけ続ける事かと思います。彼らの重たいお尻を叩き続けることかと思います。
by 山子路爺 (2012-02-01 09:53)
復興、復興・・・と言われますが、
いったい何がどうなったら復興できたと言うことになるのでしょう。
建物が全て元通りになっても、
失った命の悲しみが癒えるものではありません。
それでも前に進まなければいけない・・・のでしょうね。
by werewolf (2012-02-01 22:17)
思い万感でございましょう。
私には、語るべき言葉が見当たりません。
どうぞ、お元気で。
by asa (2012-02-02 18:26)
to werewolf さん
「何がどうなったら……」
一概には言えませんが、衣食住、教育、福祉医療の環境が整い、人々が就業する事が出来、自立の道が開けた時が一応の目安ではないでしょうか。
「失った命の悲しみ……」その通りだと思います。
しかし「それでも人は生きて行く」のではないでしょうか。人間という生き物の強さに希望を見たいと思います。
by 山子路爺 (2012-02-04 14:41)
to asa さん
お気遣いありがとう御座います。
私は元気です。何かと気忙しくあまり出かけることが出来ませんが、時間が空いたならば雪を踏みたいなどと思っています。
by 山子路爺 (2012-02-04 14:49)
震災の後、何度か宮城を訪問しました。
塩釜も車で通りました。
by 袋田の住職 (2012-02-05 16:16)
to 袋田の住職 さん
住職さんの行かれた頃の塩釜はいかがだったのでしょうか。
私が行ったときには大分活気がありました。
by 山子路爺 (2012-02-07 00:44)